「あのさ、斉藤さん。最近……顔つき変わりましたよね」
深夜0時をまわったオフィス。
空調の音だけが鳴る中、後輩のサエキが妙な笑みを浮かべてタカヤに言った。
「なんていうか……満たされた男の顔してるんすよ」
タカヤは、静かに笑った。
「そうか? なら、お前にも教えてやろうか。
ちょっと変わった店なんだが……」
こうして、サエキを“あの場所”へ連れていくことになった。
その夜。新橋。
店の名は《ミルクルーム》。
「いらっしゃいませ。初めてのご利用ですね。
本日は“つばき”をご案内いたします」
紹介されたのは、ひなたとはまた違ったタイプの“出る女”だった。
やや小柄で、可愛らしい顔立ち。だが胸は豊かで、すでに下着の上から母乳が滲んでいるのが見えた。
「ねえ、緊張してるの? だいじょうぶよ、優しくするから」
手を握られた瞬間、サエキの顔から色が消えた。
まるで、何かに呑み込まれていくような表情だった。
1週間後。サエキは変わっていた。
「斉藤さん、ヤバいっすよ……あの店。
もう、他の風俗じゃ満足できない」
「だろ?」
「いや、だって、乳だぜ……出るんだぜ? 本当に出る女が、
俺のためだけに、搾って、吸わせて……それで“許される”感じがあるんすよ」
サエキの目は血走っていた。
「……週3で通ってます。もう、つばきのミルクじゃないと、眠れなくなって……」
タカヤは黙って頷いた。
だがその時、彼の胸にはかすかな不安があった。
“のめり込みすぎている”――そう感じた。
翌月――サエキの様子がおかしくなった。
昼間の会議中にウトウトし、発言は支離滅裂。
ひどい日は、寝言で「つばき……もっと搾って……」と呟いた。
タカヤは昼休みに声をかけた。
「お前、最近どうしてる?」
「借りたっす。カードも、アコムも限界なんすけど……
でも、つばきに会いたいんすよ。
……あの乳、忘れられない。
絞る時の顔、飲ませてくれる時の目……
あれ、もう宗教なんすよ」
「おい、落ち着け」
「斉藤さん、俺……あの乳に救われたんすよ。
小さいころ母親に愛された記憶がまるでない。
でもつばきは、違った。
俺のこと“可愛い”って言ってくれる。
“赤ちゃんに戻っていいんだよ”って……」
涙ぐむサエキを見て、タカヤは何も言えなかった。
やがて社内で異変が起きた。
「経費精算、妙な振込が続いてるんですよ」
経理の女子社員がこっそり耳打ちしてきた。
「広告費に見せかけて、口座に50万ほど流れてます。
たぶん、誰かがやってます」
それを聞いて、タカヤは全てを悟った。
夜。
サエキを新橋の居酒屋に呼び出した。
「横領……したのか?」
沈黙。
やがて、サエキは震えた声で言った。
「……つばきが、“このままじゃ出なくなるかも”って言ったんです。
最近、出が悪くなってるって。
“乳が出るには愛情が必要”って……
俺、愛されるためなら、なんでもする。
会社の金なんて……どうでもよくなった」
タカヤは拳を握ったが、それを振り上げることはできなかった。
「……あの店、そういう場所じゃない。
癒される場所だが、堕ちるための場所じゃない」
「違う。俺にとっては……“天国”なんすよ」
サエキの目には、狂気と安堵が入り混じっていた。
翌朝。
社内にサエキの名前が消えた。
会社からの告発を受けて、自主退職という形で処理されたらしい。
だが、タカヤは知っていた。
彼は“向こう側”へ行ったのだ。
数ヶ月後――
新橋の裏路地で、タカヤはふと見覚えのある姿を見た。
くたびれたスーツ、痩せた頬、目の下のクマ。
「……サエキ?」
「斉藤さん、ミルク代、貸してくれませんか……」
男の声は、もはや人のそれではなかった。
「今夜、つばき……搾ってくれるって……
俺、あのミルクがないと、生きてる感じしないんすよ……」
タカヤは、何も言えなかった。
ただ、財布から一枚だけ一万円札を出して、差し出した。
「……これで、最後にしろよ」
「はい……ありがとうございます。
これで、また……会える……」
男は笑った。
それは、幸福そうで、あまりにも空虚な笑顔だった。
――母乳風俗店《ミルクルーム》。
それは、癒しと快楽と、そして堕落の入り口。
触れてはいけない者にとっては毒だが、
選ばれた者にとっては、天使の乳房となる。
(完)